- 地域及び組織
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待矢場両堰土地改良区は、群馬県の東部に位置し、栃木県と埼玉県に隣接した地域です。関東平野の最西北なため、地形は東南へ緩やかに傾斜しており、扇状地を形成しています。栃木県日光市を源流とする渡良瀬川を水源とし東西25km・南北15kmの間にある水田約4,000haを受益地域としています。
関係市町は太田頭首工の位置する桐生市、受益地を有する太田市・館林市・足利市・大泉町・邑楽町・千代田町の4市3町であり、現在の組合員数はおよそ7,700名、総代数75名、理事15名、監事3名、事務局職員14名により土地改良区の管理業務を行なっています。
- 管理施設概要
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昭和50年代に国営渡良瀬川沿岸農業水利事業が実施され、頭首工及び水路の改修が行われました。改修以前においては、地先の関係農家代表に委ねていた幹線施設(分水堰等)の操作管理を、現在では土地改良区職員が直接管理をしております。
【 受益図 】
また、平成22年度には国営総合農地防災事業(渡良瀬中央地区)が完了し、中央管理事務所(待矢場両堰土地改良区事務所内)に設置された水管理システムにより施設の監視・操作を行うことが可能になり、用水調整と合わせ排水管理も行っています。
- 待矢場両堰土地改良区の歴史
- 待矢場両堰土地改良区の現取水工『太田頭首工』の造成(国営渡良瀬川沿岸農業水利事業ー1971年~1984年ー)以前の取水口は、現頭首工辺りに『待堰』、さらに約3km下流に『矢場堰』というふたつの堰がありました。
ふたつの堰が開削された年代は不明ながら、いずれも1500年代、あるいはそれ以前の開削とも伝えられています。大河川直結の用水開発は洪水などに対処できる取水口管理が可能な財政力、政治力、技術力が伴わなければならず、そのことでは安定した政治力の管理下にあったものといえます。
その時々の領主により水方普請役等がおかれ維持管理を行なってきましたが、1682年(天和2年)から幕府直営となり、諸費用は幕府支弁となりました。
時代は移り、1871年(明治4年)には関係191村の民費負担による管理となりました。
ふたつの堰の管理体制は当時別々の管理であったため、頻繁に水争いが起こっていました。しかし1877年(明治10年)の大旱魃により勃発した大規模な水争いを契機に群馬県が仲介となり両管理組合は和解をし、『待矢場両堰水利土功会』として一元管理をしていくこととなりました。
その後、『待矢場両堰普通水利組合』へと改組をし、1951年(昭和26年)に現在の『待矢場両堰土地改良区』に組織変更をし、施設の管理を実施しています。
また、渡良瀬川の水源山地の荒廃による水量の枯渇を原因として、年々用水不足となり1951年(昭和26年)から1959年(昭和34年)にかけて、『県営渡良瀬川右岸土地改良事業』により待堰取水樋門の改築、伏流水及び地下水を補給水源とする集水暗渠工、水路改修等の大規模工事が実施さました。これらの工事をはじめとして、20世紀の半ば頃から数多くの維持補修を実施してきましたが、施設全体にわたる改修整備は実施されず、施設の老朽化・河床変動による不安定な取水・配水状態は昭和50年代に実施された国営事業(太田頭首工)完成まで続いていました。
※写真左から「待取水水門」・「矢場水門と洗堰」・「矢場自然取水工」