待矢場両堰土地改良区

概要


 待矢場両堰土地改良区は、群馬県の東部に位置し、渡良瀬川と利根川に挟まれた地域で、関東平野の最西北にあたります。地形は平野部への移行部のため、ゆるやかに南東へ傾斜しています。受益区域は太田市・館林市・大泉町・邑楽町・千代田町・栃木県足利市の3市3町に亘っており、群馬県内随一の穀倉地帯でありながら、都市化も進む混住地域でもあります。
 気候は典型的な表日本型の気候で、冬は晴天が続き乾燥した北西季節風が吹くこと、夏は湿潤な太平洋高気圧に支配され梅雨や台風による降水が多いことなどの特徴があります。

 当土地改良区では国営事業や県営事業等で造成された基幹水利施設の管理を行なっており、その数は幹線水路等が約114km・水門や揚水機場が118ヶ所・除塵施設が1ヶ所・ため池が1ヶ所となります。



また、群馬県の管理施設である太田頭首工及び上流部にあたる幹線水路5.7km・沈砂池1ヶ所・除塵施設1ヶ所・水門や揚水機8ヶ所については、当土地改良区と栃木県の三栗谷用水土地改良区で組織している渡良瀬川中央土地改良区連合(事務局:待矢場両堰土地改良区)が群馬県から操作委託を受け、操作管理をしています。




 幹線水路からさらに枝分かれした末端施設(水路・水門)については、行政及び農家を中心とした集落組織で維持管理をしていただいています。しかし、農業情勢として以前より問題となっている後継者不足や高齢化が、こうした維持管理にも大きな影響を及ぼしており、当土地改良区も行政と協力しながら、末端施設の維持管理に協力しています。

歴史
 待矢場両堰土地改良区の起源は元亀元年(1570年)に遡ります。室町時代の末期、経済基盤を強固にするため、農業の育成に力が注がれ、新田開発が進みました。しかし、開発に伴う農業用水の供給が追いつかない状態であったため、新たな水源を求める必要性に迫られました。新田金山城主であった由良信濃守成繁に奉行職を任じられた家臣の荒山小左衛門は村々の高割り附け(予想生産量や年貢割付量を調べ、資材や労働力を調達)を正して、桐生市相生町付近を流れていた渡良瀬川に水門(待堰)を設置、および大同堀下流の河川(新田堀)の改修工事を行ないました。また同じころ、館林足利の領主、長尾但馬守顕長は、領地開発をするにあたり、土木工事に実績のあった大谷新左衛門休泊を奉行職に任じました。休泊は新田堀と同様に取水源を渡良瀬川に求め、韮川から分流していた河川を改修、引入れ工事を行い、現在の太田市内ケ島から大泉町、千代田町、邑楽町、館林市を経由し明和町に至る用水路(上休泊堀)を開削しました。これが待矢場両堰の始まりです。

《昔の待堰・矢場堰地域図》


 江戸期に入ると、待堰や矢場堰、また幹線水路は幕府(館林藩)直営として管理下に置かれ、水方奉行普請役が用水管理を行うようになりました。幕府体制下の用水管理は、館林藩の場合、水方奉行を直接頂点として、江戸時代初期のころは村主体の維持管理でしたが、18世紀に入ると水系ごとの受益地域が組合を作って管理をしていました。藩が直接管理するのは、取水口を中心に幹線水路に主体が置かれ、末端・集落内部の用水管理については、地元の村役人がこれを行っていました。こうした管理体制の基本は今もなお続けられています。
 また、江戸期には士農工商の身分制度が定められ、農民は厳しい統制を受けることとなりましたが、土地を奪われる心配が無くなったため、進んで荒地を開墾しました。その結果、16世紀末に約150万haだった全国の耕地面積は、わずか100年後の17世紀末には約2倍の300万haに増加しました。
 しかし、この頃の急速な新田開発に伴い用水確保のため農民たちによる水争いが頻繁に起こるようになりました。こうした事態に対し、幕府は権力による「切流し」を行ない、直轄管理をしていた待堰・矢場堰を含む渡良瀬4堰に優先的に、用水配分(古田優先)をしていました。
 明治期に入ると廃藩置県で支配権力が後退したため待矢場区域の農民自らが優先的な用水配分を死守しようと、切流しを実力行使するまでに及ぶこともありました。
 そのようななか、1877(明治10)年に50年ぶりといわれるほどの大干ばつに見舞われ、下流矢場堰水系の地域は田植えが不能となりました。このため矢場堰水系の農民が上流待堰の洗堰を切流そうと迫り、一触即発の危機に瀕しましたが、その日の夜に豪雨となり、騒動は一応の終息をみました。待堰・矢場堰対立騒動の参加者は合わせて3000人に及び、事態を重くみた群馬県が仲介となり、待堰・矢場堰は和解が成立、二つの堰は合併が進められ、1882(明治15)年に「待矢場両堰水利土功会」が結成されました。これが現在の待矢場両堰土地改良区の前身となります。その後水利組合条例施行に伴い、「待矢場両堰普通水利組合」と名称変更し、また1949(昭和24)年「土地改良法」の交付を受け、1951(昭和26)年に土地改良区として認可を受け待矢場両堰土地改良区の誕生しました。